History 後藤散の歴史
後藤散の歴史
HISTORY OF GOTOSAN-
「後藤散」の誕生
うすき製薬は大正9年に先代・内科医の「後藤前(すすむ)」が「後藤薬院」を開設、「後藤散」の製造販売を開始致しました。当時の町医者は、現在のように病院で診察をおこなうのではなく、歩いたり、人力車に乗り往診していました。また医者が自ら薬を作り、患者に処方することも決して珍しい事ではなかったそうです。 薬の形態が散薬(こなぐすり)、後藤医院の散薬だから、「後藤散」という名前で患者さんの間で「よく効く薬」と評判になり、広まっていきました。 その後、「後藤薬院」は「臼杵製薬」から「うすき製薬」と社名を変更し、現在に至っております。
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海外でも使用されていた「後藤散」
大正から昭和に入ると、中国や朝鮮半島に向けて出征する兵隊さん達が増え、衣服の破れた所を繕う為の「縫い針」や「まち針」といった裁縫道具は、海外にいる彼らにとって必需品の1つでした。そこで先代は「後藤散」の斬新な売り方を考えました。薬のおまけとして「縫い針」や「まち針」をつけ、中国や朝鮮半島にいる兵隊さん達に配布し、この売り方が大ヒットし「後藤散」九州のみでなく海外でも使用されていきました。
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看板広告「後藤散」
「後藤散」を次の世代に繋ぐ為に、「古くからあるものは安心」というイメージをもってもらう為、それまで行っていた広告を全て取りやめ、明治、大正~昭和まで当時宣伝の手法として主流であったホーロー看板を大量に作製し、社員総出で南は鹿児島北は福岡、山口や鳥取までの目に付きやすい家々に設置させて頂きました。こうした地道な販促活動により、ご愛用者様を増やしていきました。
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TVCM「後藤散」
歴代テレビコマーシャルにおいては、「一に休養、二に栄養、三・四がなくて 後藤散」のブランドフレーズを継承したものを放映してきました。
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ユーモアのある「販促グッズ」
また、時代の変化とともにこれまで数々の販促グッズをつくっております。
後藤散の取り組み
EFFORTS OF GOTOSAN古くて新しい「アスピリン」
「後藤散」に主成分として配合されているアスピリンは古くから用いられている代表的な解熱鎮痛剤です。ドイツで1899年にアスピリンが医薬品として販売されて以来、代表的な解熱鎮痛薬として世界中で使用され、100年余りを経過した現在でも、効き目の良い、安全な薬として使用されています。アスピリンというと「ピリン系」の薬剤と思われがちですが、そうではなくピリン系とは全く異なる医薬品であり「後藤散」はれっきとした「非ピリン系」の解熱鎮痛薬です。
古くて新しい効き目の良い、安全な薬「アスピリン」
解熱鎮痛剤の後藤散は散剤(こなぐすり)です。
散剤とひとくちにいってもそのお薬の粒の大きさにはいろいろありますが、後藤散はあえて微粉末を使用しています。薬包紙を広げて後藤散を指で触ってみるとそのきめの細かさを実感していただけるでしょう。服用時にのどの奥で粒子のざらつきを感じることはありません。後藤散に使用しているアスピリンは小麦粉と同じぐらいに細かく粉砕した粉末です。そして生薬のケイヒやカンゾウはさらにもう少し粒の小さいものを使用しています。
粉末のきめが細かくなると、表面積が大きくなります。表面積が大きいと服用したときに分解や反応が速くなります。素早い効きめの後藤散ですが、その反面、表面積が大きいために、アスピリンが水分と反応しやすくなる(有効成分が分解しやすくなる)という弱点もあり、品質保持は私たちの大きな課題でした。
今、私たちうすき製薬は薬包紙で包んだ分包をさらに乾燥剤と共にアルミ包装し、アルミ包装の中で乾燥剤に水分を吸い取らせるという方法で品質の安定をはかっています。紙に包んだ上にアルミで包装するのは過剰包装では、と時々おっしゃられることもありますが、品質保持のために意味がある包装形態なのです。 シンプルな処方の後藤散の良さを最大限に生かし、さらにお客様にお使い頂きやすいお薬にするために、私たちはこれからも努力を重ねて参りたいと考えています。
SDGsの取り組み
12.つくる責任 つかう責任
SDGsの取り組み
12.つくる責任 つかう責任
江戸時代に臼杵市で栽培が開始されたのが始まりと言われる
大分県特産の香酸柑橘「かぼす」。
※臼杵市内にはかつて元祖木とされる樹齢300余年の古木が存在しております。
「かぼす」は食材や料理の味の引き立て役と言われていることから、 様々な料理にカボス果汁を掛ける文化が根付いています。 これまで「かぼす」の旬は緑色の時期だけと考えられていました。 完熟した黄色のカボスは傷みやすい為、流通せずに廃棄されることも多く、 この黄かぼすを資源活用した商品開発にも取り組んでいます。